生稲晃子 乳がん2度の再発、5度の手術を経て、家族に感謝していること

言葉よりもそばにいてくれるのが救いだった
生稲晃子 女優

出典=『婦人公論』2019年7月23日号
婦人公論.jp

https://fujinkoron.jp/articles/-/1200

「あのとき先生のアドバイスを無視していたら、いま私はこの世に存在していなかったかもしれません」(生稲さん)撮影:藤澤靖子

乳がんを発症してから4年8ヵ月の間、公表をせずに、治療をしながら仕事も育児も続けていた生稲晃子さん。外では笑顔でいる反面、内心は落ち込むこともあったそう。いちばん近くにいる家族はどんな存在だったのでしょうか(構成=丸山あかね 撮影=藤澤靖子)

人間ドックへ行ってみたら

最初に告知を受けてから、8年あまりが過ぎました。現在もホルモン治療を続行中ですが、おかげさまで元気に過ごしています。

日本人の2人に1人ががんになり、3人に1人が死に至ると言われているのに、多くの方が、自分に限っては大丈夫だと考えてしまいがちですよね。私もそうでした。とはいえ一応検診を受けておこうかぐらいの気持ちで、毎年、区の無料検診には行くようにしていたのです。

ところが2010年は本当に忙しくて……。家事と仕事の両立に加え、娘の保育園の送り迎えや、経営する鉄板焼きのお店での接客、さらに義父に悪性リンパ腫が見つかるという深刻な事態も重なり、区の検診を受けそびれてしまいました。

この話を知り合いの医師にしたところ、人間ドックを勧められ、年をまたいだ1月に実行。正直、面倒くさいなと思ったのですが、あのとき先生のアドバイスを無視していたら、いま私はこの世に存在していなかったかもしれません。

3月半ば頃だったでしょうか。医師より連絡を受けたという夫から「親父だけじゃなく、アッコもらしいよ」と、まさかの自宅内告知。その後、医師から正式に告知を受けました。

もちろんショックでしたが、その実、私自身はあまりピンときていませんでした。おそらく自分の父親と妻が同時期にがんを患うという状況になった夫のほうが、落胆が大きかったのではないかと思います。

あるとき夫が誰にともなく「俺が悪いのかな」とつぶやきました。私はその言葉を聞いて、「申し訳ないことになってしまった」と、事の重大さを痛感したのです。でも夫が後ろ向きな言葉を口にしたのは、後にも先にもこの一度きりでした。

8ミリ程度の小さな腫瘍でしたので、5月に乳房温存手術をして、7月に再発を防ぐため放射線治療を受け、8月からホルモン治療を開始し、これで片がついたと思っていたのですが……。

翌年、再発してしまいました。ただ前回と同様に早期発見、大きさも1センチ以下でしたので、部分切除で対処できるのは不幸中の幸いだと、ポジティブにとらえて乗り切ったのです。

でもまたその翌年の2013年11月に再々発したと知らされたときは、ショックが大きくて。「また?」と思うのと同時に、自分の人生が厳しい局面を迎えていることをハッキリと認識したからです。

今度は右乳房の少し奥に見つかったということで、主治医から「もし、次にまた同じようなことがあったら危険です。まず腫瘍を取りますが、この手術が最後だとは思わないでください」と告げられてしまい……。このとき初めて、「私、死ぬかも」とリアルな恐怖に襲われたのを覚えています。

念のために部分切除をして細胞を調べ、悪性であると判明したのを受けて、12月に右乳房全摘手術に踏み切りました。全摘手術と聞いたときは先生と夫の前で思わず号泣。受け入れることができずにいたのですが、「確実に命が助かる手段をとりましょう。幼い娘さんを残して死ねないでしょう?」という先生の言葉に深く納得し、決断したのです。

全摘手術とともに、再建に向けてティッシュ・エキスパンダーという器具を挿入し、皮膚が伸びるのを待って、2015年10月にシリコンを入れる再建手術を受けました。そして翌月、これで治療が一段落したというタイミングで乳がんであったことを公表したのです。

ジェットコースターのように気分が浮き沈み

当時は一日一日を過ごすのに必死でしたが、改めて振り返ってみると長く険しい年月でした。がんになってしまったという衝撃や術後の痛みもさることながら、ホルモン治療の副作用が厄介なのです。ホルモン治療をすると更年期障害のような症状が出やすくなって、さまざまな不定愁訴に見舞われます。

私の場合、ホットフラッシュが始まりました。それからイライラしたり、ハラハラしたりと情緒不安定になって、「どうして私が」と理不尽な思いに苛まれたり、「私はこれからどうなるのだろう?」という不安に心を乗っ取られて眠れなくなったり。

いまでこそ感情をコントロールできるようになりましたが、当初はジェットコースターに乗っているようでした。

仕事はずっと続けていたので、外では元気で明るい自分を演じ続け、家に帰るとその反動でどっと疲れてしまう。夫に八つ当たりすることや、甘えてくる娘を受け止めきれないこともありました。

すると今度は激しい自己嫌悪に陥るといったことの繰り返し。私の苦しみは誰にも理解してもらえないという孤独感や疎外感が募り、といってどう癒やせばいいのかわからず、うつうつとすることもありました。

それでも長期にわたる治療のあいだ希望を失うことがなかったのは、家族の支えがあったからです。わが家の場合、極めてドライな支え方でしたけれど。夫とがんについて話し合ったことは、特別にはなかったと思います。

手術には必ず付き添ってくれましたが、2度目に部分切除をした日などは、私を病院から家に送り届けると呑みに出かけてしまいました(笑)。ありえない! と憤慨しつつ、傷口の痛みに耐えながら娘の食事の支度をしたのですが──。

でもその実、普通の暮らしが送れることに大きな幸せを見出していたのです。家族に必要とされていると実感することが、どんな薬より効果的だったと、いまでは確信しています。

夫と娘に一番感謝していることは

乳がんであったことを公表したあとに出演した『徹子の部屋』で、私は期せずして夫の本音を知ることができました。徹子さんが読み上げてくださった夫からの手紙には、「平常心で向かわなければがんとは闘えないと思った」と記されていたのです。

そういえばと思い出したのは、小学2年生になっていた娘が、がんで亡くなったクラスメイトのお父様の葬儀に参列したときのこと。まだ公表する前でしたので、娘が「うちのママもがんなんです」などと言ってしまうのではないかと案じていたのですが、沈黙を通してくれました。

あれは私の知らないところで、夫が娘に言い聞かせてくれていたのかなと。彼の性格上、適当に誤魔化されてしまうのがオチなので確認していないのですが、淡々と過ごしているようでいて、寄り添う気持ちを湛えてくれていたのを感じます。

治療方針について、私の考えを尊重してくれたことも良かったです。主治医から全摘手術を提案されたときには、「こういう例もあるようですが、温存できませんか?」と打診してくれましたが、私が全摘を決意すると、夫はもう何も言いませんでした。

決意したとはいえ私の心は揺れていたので、どんな方針であろうと「こうするべきだ」と強く主張されたら、迷路にハマっていたと思います。誰かの意見に翻弄された挙げ句、後悔する結果になっては目も当てられません。夫はそのことも理解したうえで、考えを持って対峙してくれていたのだと感謝しています。

娘の強さにも救われました。実は再々発したときに、うっかり「ママ、死んじゃうかもしれない」とこぼしてしまったのですが、娘はしょんぼりするどころか、きっぱりとした口調で「そういうことは二度と言わないでほしい」と。おかげで私は目が覚め、前向きになることができたのです。

それでいて娘は、全摘手術の前に主治医に手紙を託してくれていました。術後に知ったことで、先生は「内容は内緒です」とおっしゃいましたが、娘の思いが心に響きました。

全摘手術を受けたあとに家族で温泉旅行に出かけたときにも嬉しいことがありました。私は、乳房は再建していますが乳頭はないので、やっぱり大浴場に行く気にはなれずにいたのですが、娘が深夜に偵察に行って「今なら誰もいないよ」と知らせてくれたり、人がいても私の胸が隠れる位置に立っていてくれたりしたのです。

いま中学2年生になった娘は反抗期の真っ最中で、私たちはしょっちゅうバトルを繰り広げています。先日、温泉旅行をした折も何かしら反抗したい様子でしたが、大浴場ではやはり絶妙なポジションに立ってくれていました。(笑)

家族が寄り添うのに言葉はいらない

現在、私は国の「働き方改革実現会議」における民間議員として、キャリアを失うことを恐れて病のことを話せないまま、仕事と治療の両立に苦しむ人のサポートに取り組んでいます。がんを患う方やご家族を対象にした講演ではさまざまな質問を受けることもありますが、一番多いのは、闘病中の家族にどう声をかけたらいいのか? というものです。

このことに関しては、患者さんの症状や、その方の性格によってケースバイケースだと思います。ですので一概には言えませんが、私自身の率直な気持ちをお伝えするとしたら、「特別な言葉はいらない」ということです。

私は家族と一緒にいるだけで安心して治療に臨むことができました。「死ぬかもしれない」と思ったときでさえ、家族と心がつながっているのだから大丈夫だと自分を勇気づけられたのです。

もっと言えば、「なるようにしかならないのだ」と、開き直ることができた。私に腹を括って病と闘う強さを与えてくれたのは、夫や娘の言葉ではなく、存在そのものでした。

励ますつもりで発した言葉がかえって患者をナーバスにしてしまうこともあると思います。私に限って言えば、闘病中はどうしても卑屈になってしまいがちで、たとえば「頑張ってね」という声かけに対しては、「言われなくても頑張ってるんですけど」と、反発を覚えたことでしょう。そもそも移ろいやすい患者の心にフィットした言葉を投げかけるのは、難しいことだと思います。

だからといって「自分は無力だ」などと、ご家族が暗い気持ちになってしまっては元も子もありません。できることは言葉以外にもあると思います。たとえば、じっくり話を聞くこと。ただ聞いてもらえるだけで救われる人も多いのではないでしょうか。



TOP 芸能 生稲晃子 乳がん2度の再発、5度の手術を経て、家族に感謝していること

2019年11月27日
芸能 健康 インタビュー
生稲晃子 乳がん2度の再発、5度の手術を経て、家族に感謝していること
言葉よりもそばにいてくれるのが救いだった
生稲晃子 女優
がん 闘病

励ますつもりで発した言葉がかえって患者をナーバスにしてしまうこともあると思います。私に限って言えば、闘病中はどうしても卑屈になってしまいがちで、たとえば「頑張ってね」という声かけに対しては、「言われなくても頑張ってるんですけど」と、反発を覚えたことでしょう。そもそも移ろいやすい患者の心にフィットした言葉を投げかけるのは、難しいことだと思います。

だからといって「自分は無力だ」などと、ご家族が暗い気持ちになってしまっては元も子もありません。できることは言葉以外にもあると思います。たとえば、じっくり話を聞くこと。ただ聞いてもらえるだけで救われる人も多いのではないでしょうか。


家族も適度にストレスを発散して

共倒れにならないよう、家族の方自身が適度にストレスを発散する、あるいは無理をしないなど、自己管理に努めるのも、実は大切なことだと思います。

経済的なことが不安材料だというケースもあるでしょう。私にしても、治療にいくらかかるのかということが気がかりでした。たまたまがん特約つきの生命保険に入っていたので、手術費や入院代はカバーすることができたのですが、治療は続きますし、それだけでは済みません。

私の場合、乳房を全摘したあと新たに揃えた下着代や、これさえあれば大浴場にも堂々と入れると購入したニップル(接着性の人工乳頭)代など、保険のきかない出費も嵩みます。お金については、ある程度率直に話し合っておくと安心かもしれません。

いつまた再発するかもしれないという不安はあります。でも明日のことは誰にもわからない。結局のところ、人は今日という日を精一杯生きることしかできないのだと思います。

がんは憎たらしいけれど、大切なことを教えてくれたという意味で、感謝している部分もあるのです。これからも家族とともに、何があっても淡々と、そして明るく生きていきたいと思っています。



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生稲晃子 女優
がん 闘病

励ますつもりで発した言葉がかえって患者をナーバスにしてしまうこともあると思います。私に限って言えば、闘病中はどうしても卑屈になってしまいがちで、たとえば「頑張ってね」という声かけに対しては、「言われなくても頑張ってるんですけど」と、反発を覚えたことでしょう。そもそも移ろいやすい患者の心にフィットした言葉を投げかけるのは、難しいことだと思います。

だからといって「自分は無力だ」などと、ご家族が暗い気持ちになってしまっては元も子もありません。できることは言葉以外にもあると思います。たとえば、じっくり話を聞くこと。ただ聞いてもらえるだけで救われる人も多いのではないでしょうか。


家族も適度にストレスを発散して

共倒れにならないよう、家族の方自身が適度にストレスを発散する、あるいは無理をしないなど、自己管理に努めるのも、実は大切なことだと思います。

経済的なことが不安材料だというケースもあるでしょう。私にしても、治療にいくらかかるのかということが気がかりでした。たまたまがん特約つきの生命保険に入っていたので、手術費や入院代はカバーすることができたのですが、治療は続きますし、それだけでは済みません。

私の場合、乳房を全摘したあと新たに揃えた下着代や、これさえあれば大浴場にも堂々と入れると購入したニップル(接着性の人工乳頭)代など、保険のきかない出費も嵩みます。お金については、ある程度率直に話し合っておくと安心かもしれません。

いつまた再発するかもしれないという不安はあります。でも明日のことは誰にもわからない。結局のところ、人は今日という日を精一杯生きることしかできないのだと思います。

がんは憎たらしいけれど、大切なことを教えてくれたという意味で、感謝している部分もあるのです。これからも家族とともに、何があっても淡々と、そして明るく生きていきたいと思っています。


構成: 丸山あかね
撮影: 藤澤靖子
ヘアメイク: 伊熊美砂
衣装協力:Yukiko Hanai
出典=『婦人公論』2019年7月23日号


生稲晃子 女優

1968年東京都生まれ。
86年『夕やけニャンニャン』おニャン子クラブのオーディションに合格。
おニャン子クラブ卒業後は女優、コメンテーターとして活躍するほか、
自身の闘病体験をもとに講演活動も行う。
著書に『右胸にありがとう そして さようなら』がある。

2019年11月27日