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2019年9月24日 ヨミドクター
「先生、『共依存』ってよくないんですよね?」
V子さんが、心療内科の外来で問いかけてきた。
「家族問題のグループで、そう言われたの?」
「そうなんですよ。お母さんとの関係が苦しくて仕方がないので、皆さんの前でその話をしたら、『それは共依存だから、何とかしなきゃ!』って言われちゃいました……」
V子さんは、35歳の女性。外来での診断名は「抑うつ状態」だ。3年前から通っており、時々、家族問題のミーティングにも顔を出している。父と兄が交通事故で他界 その後は…
彼女の家族は、もともと仲の良い一家だった。両親と兄とV子さんの4人暮らし。父親も兄も穏やかな人柄で、彼女の面倒をよく見てくれた。小さい頃は本当に幸せだったと、今でも彼女はよく思い出す。
その幸せを奪ったのは交通事故だった。
高齢者の危険運転で、父親と兄の命があっという間に奪われたのだ。彼女と母親は奇跡的に助かったが、その後の生活は悲惨なものになった。
母親は仕事に出るようになり、家の中のことはV子さんが全部こなした。もともと体の弱かった母親は、無理をして体を壊し、寝込むことが多くなって彼女を心配させた。それでも、かけがいのない2人だけの家族。そう思ってV子さんは頑張ってきた。
母親が「気持ちが悪い」と言えば、布団を敷いて早く寝かせ、「休みたい」と言えば、仕事先におわびの電話を入れた。お金がないからと、毎日、倹約を心がけ、大学に行くお金はなく、進学をあきらめて就職した。それも仕方がないと思ってきた。「お母さんに無理をさせたくない」「これ以上、家族を失いたくない」。その一心だったのだ。
「ここまで私一人で育ててやったのに!」
母親との関係が悪化したのは3年前、V子さんが職場の上司と親しくなり、彼との結婚話を打ち明けてからだった。
最初は祝福してくれたものの、彼が実家の商売を継ぐため、結婚したら遠方に引っ越すつもりであることを話したら、急に態度が変わった。
「私を捨てていくつもり? ここまで私一人で育ててやったのに!」
と母親は、怒りに震える声で叫んだ。驚いた彼女は、母親をなだめようといろいろ話したけれど、うまくいかなかった。
それから親の体調が悪くなった。V子さんは看病に追われるようになって、会社を辞めた。結局、彼との仲も疎遠になり、結婚話も消えたのだった。
彼女は次第にイライラが募り、眠りが浅くなった。気分も落ち込んで、心療内科の外来に通うようになったのである。
共依存は子育てに必要なシステム
「思い返してみると、お母さんは、私をずっと縛りつけていました。大学に行けなかったのも、『働いて家計を助けてくれ』と言われたからだし、ことあるごとに『具合が悪い』と言っては、私がやりたいことをやらせてくれなかった。グループで『共依存』と言われて、あらためて母に縛られた人生が苦しかったんだと思いました。私の『うつ』も、そのせいじゃないかと……」
共依存とは、依存症、すなわち 嗜癖 の一つ。「行為嗜癖」と分類されている。アルコール依存者の家族が、依存者本人を支えるために、お互いの関係に巻き込まれている状態などが典型で、「カプセル親子」と呼ばれる関係もよくみられる。
「でも、共依存がないと、子どもは育てられないよね?」
とV子さんに問いかけてみた。
「小さい子どもは無力だから、お母さんとの依存関係で命を保って育ってゆく。『共依存』は、私たちが生きる上で必要なシステムなんだと思う。ただし、それが過ぎると、いつまでも子どもを手放さない親によって子どもが苦しむことがある。あなたは今、それが苦しいとようやく気づくことができた。これからどうするか、自分で決める時が来たんだと思うよ」
V子さんはしばらく考え込んでいた……。
シェアハウスで自由に 「人生これからだ!」
「先生、シェアハウスにころがりこみました!」
と、彼女が報告に来たのは、それから半年後のことだった。
母親からの「自立」をいろいろと試しているうちに、「自分を捨てるのか!」と叫ぶ母親と、またまた大げんかになった。「そんな不義理娘はいらない。出て行け!」と言われて、これ幸いと実家を飛び出したのだ。
「お金がないので、ほかの人たちとの共同生活。お風呂もトイレも共同なので、最初はイヤだったけど、少しずつ慣れました。親しくなってみると、いい人が多くて、いろんなことを教わります。すごく自由になった気分で、人生これからだ、って気持ちになりました」
その後の母親との関係については、
「相変わらずだけど、放っておいたら母も案外、元気になって、先日は友だちと遊びに行ってきたみたい。電話で『亡くなったお父さんの分まで生きなきゃ』とか言うのであきれ果てましたよ……」
そう語るV子さんの表情は、以前より格段に明るくなっていた。母親と距離を置いたことで、気持ちが楽になったようだ。
「でも、母には感謝しています。やはり、かけがえのない家族。どこにいても、忘れることなんてできませんからね……」
彼女の言葉は、自立を勧めた私にとっても、一番の救いになったのだった。(梅谷薫 心療内科医)
*本文中の事例は、プライバシーに配慮して改変しています。
梅谷 薫(うめたに・かおる)
内科・心療内科医
1954年生まれ。東京大学医学部卒。90年から同大学で精神科・心療内科研修。都内の病院の診療部長、院長などを経て、現在は都内のクリニックに勤務。「病になる言葉~『原因不明病時代』を生き抜く」(講談社)、「小説で読む生老病死」(医学書院)など著書多数。テレビ出演も多い。